常高院の紹介


常高院の生涯について戦国の三姉妹

戦国時代、絶世の美女といわれたお市の方と近江の小谷城主浅井長政の間には三人の娘がありました。 「戦国悲劇の三姉妹」として有名な、淀殿(秀吉の側室、秀頼を生んで大坂城の実権を握った)、お初の方(京極高次の正室、後の常高院)、お江の方(徳川二代将軍秀忠の正室、家光・千姫の母) です。大名家に生まれたとはいえ、三姫の幼少時は、相次ぐ戦乱の中に有為転変の激しい年月でした。
 お初の方六歳の天正元年(一五七三年)、姉川の戦いで父長政は滅ばされ、その後庇護を受けていた信長も本能寺の変(一五八二年)であえない最後を遂げ、更にお初の方十五歳の時、柴田勝家に再嫁したお市の方に伴われて越前に赴いたのも束の間、一年後には賎ケ岳の一戦いで秀吉に攻められて、勝家とお市の方は自害し、結局は秀吉に引きとられてその保護のもとに成人を迎えたのでした。

 
 お初の方二十歳の時、秀吉のとりなしで、没落した名門佐々木京極家の嫡男で、当時は秀吉の一部将として台頭しつつあった京極高次(近江高島郡大溝城主)のもとに嫁ぎました。
 その後十数年を経て関ヶ原の合戦においては、近江滋賀郡大津城六万石の城主であった高次は、様々な経緯の末、徳川方に与(くみ)することとなり、お初の方は姉の淀殿を敵に回す立場に立たざるを得ませんでした。ともあれ、合戦の功により高次は若狭八万五千石を受領して小浜城主となり、お初の方共々、小浜の地に足を踏み入れました。
 徳川体制が固まりつつあった慶長十四年(一六〇九年)、高次は病のため小浜城で没し(四十七歳)、忠高が二代目城主となる。お初の方は直ちに剃髪して、常高院と称しました。(四十二歳) ところが、関ケ原の戦いから十数年後の、大坂冬の陣・夏の陣において、常高院は姉の淀殿・秀頼母子を救わんと、徳川家に嫁いだ妹・お江の方の義父に当たる家康の命で大坂城へ乗り込んで和議の交渉にあたりました。しかし、その努力もむなしく戦火は上がり、幼い時から苦楽を共にした姉や甥の秀頼を失ってしまいます。お初の方が、ねんごろに労をねぎらってくれる姉・淀殿に最後の別れを告げて大坂城を去ったのは一六一五年四月七日、大坂城落城は翌八日でした。

晩年、江戸に滞在していた常高院は、自らの心の拠りどころとして、また、夫高次の菩提を弔い、さらには父母である浅井長政とお市の方らの供養の為、寛永七年(一六三〇年)嫡男である忠高(実母は於崎(玉台院)、正室は徳川家第2代将軍秀忠・お江の方の四女・お初)が領する小浜の地に一ヵ寺建立を発願し、幸いにも槐堂和尚との知遇を得て開山として迎えました。かつて秀吉からいただいていた化粧料二千四十石のうち三百石を寺領として寄進し、寺の基盤を固めました。しかし、常高院は病を発して、晋請半ばの寛永十年八月二十七日、京極家の江戸屋敷にて波乱に富む人生を閉じました。(享年六十六歳) 遺骸ははるばると木曽路を越えて小浜城に運ばれ、常高寺において葬儀が執り行われました。城主忠高を始め、家臣もことごとく喪服にて葬列に参加したと言われます。


 京極高次(きょうごくたかつぐ)は室町期における近江の守護大名であった佐々木京極家の嫡男として生まれました(一五六三年)が、幼少時は辛酸を嘗めました。既に京極家は家臣であった浅井家に大名の地位を奪われており、高次は信長のもとに人質として送られたのです。
 名門京極家再興を期待されて成長した高次は、秀吉配下の部将として活躍し、秀吉のあっせんでお初の方を正室として迎えたのは、近江大溝城主一万石の時でした。
 その後、日本を二分する関ケ原の合戦が起こりました。秀吉の取り計らいでお初の方と結婚しましたが、そのお初の方の妹お江の方の嫁いだ徳川家から矢継ぎ早に来る度重なる出陣依頼を断り切れず、今度は徳川方に加担しました。お初の方の姉の豊臣家と妹の徳川家の板挟みとなって苦しんだのです。しかし、天下はすでに徳川家に傾きつつありました。しかし、その功あって若狭八万五千石の領主として小浜に入府しました。
 小浜における業績としては、それまでの後瀬山城(のちせやまじょう)を廃し、雲浜(うんぴん)に新たに小浜城の築城に着手したこと、又、現在に至る小浜の町割りを行ったことなどがあげられます。しかし、病を発し、小浜城の完成を見ることなく慶長十四年(一六〇九年)四十七歳で没しました。 戒名 泰雲院殿前三品相公徹叟道閒大居士